幼少期の年末年始の思い出

年の瀬も迫り、年末年始の準備でどこの家庭も大忙し。

幼い頃のアスペ子の年末の思い出は、大掃除と餅つき。特に印象に残っているのが、まだ建て替える前の古い家の時のことです。

大掃除は寒い中、窓拭きや自分の机の周りや机を掃除しました。

父親は庭の剪定、母親は台所、兄はアスペ子と同じような掃除をしていました。

 

幼少期の年末はどんなだったかな・・・

12月29日は、毎年、父親の実家で餅つきがありました。

親戚一同が叔父さん(父親の兄)の家に集まり、臼と杵で親戚分の餅を大量についていました。のし餅、鏡餅、あんころ餅、その場で出来たてをからみ餅で食べたりして、あの頃は寒さ知らずで、餅つきの様子をずっと眺めていたアスペ子でした。

親戚一同が集まって、叔母さん(叔父さんの妻)たち女性陣は大きな釜でもち米を炊き、男性陣は餅をつき、というのは今ではあまり見られない光景です。

アスペ子は、人の輪の中に入ることができなかったので、眺めているだけでしたが、時々「アスペ子ちゃん、あんころ餅を作るのを手伝って」と言われ、慣れない手つきで餅の中にあんこを入れ、手の中でコロコロと餅を転がした記憶があります。

叔母さんたちの作るあんころ餅は丸くてちょっと平べったくて美味しそうでしたが、アスペ子の作ったあんころ餅はツルツル感がなくて不恰好でした。

「それはアスペ子ちゃんが作ったあんころ餅だから、せっかくだから持って帰りなさいね」と言ってくれましたが、アスペ子宅にそのあんころ餅が来たかどうかはわかりません。

のし餅も鏡餅もその場で作っていたはずなのに、作っていた光景はアスペ子の記憶にはありません。あるのは「ぺったんこ、はい、ぺったんこ、はい」と餅をついている光景だけです。

餅つきが終わり、お開きになると家に帰り、今度は母親と一緒にのし餅を長方形に切り分けます。

餅取り粉を使いながら包丁で切っていくのですが、つきたてののし餅は切りにくく、苦労したのを覚えています。一晩置くと切りやすいのですが、そうすると餅の味がちょっと落ちるので、なるべくすぐに切るようにしていました。

アスペ子はまだ小さかったので少ししか切りませんでしたが、袋詰め係をやっていました。餅取り粉を切ったところにつけてビニール袋に詰めていきます。

どのくらいの数の餅があったかなと今思い出してみると・・3キロ分くらいはゆうにあったと思います。お正月以外でも食べていましたから、相当量があったのでしょう。ありがたいことです。

鏡餅は、慌てて片付けた床の間と、真ん中の兄の仏壇に飾りました。(仏壇にも飾るものなのかな?と今気づきました)

余談ですが、鏡餅は、鏡開きの時に割って干して、油で揚げて塩を振り、かき餅にして食べました。このかき餅はアスペ子の大好物です。

運動クラブで太っていると言われ続けていて、あまり油脂分を取らない食生活だったので、かき餅はもうあればあるだけ食べていました。当時の子供だったら、みんなそうだったかもしれませんね。

アスペ子宅で唯一贅沢なことをしていたのは、12月31日〜1月1日まで家族で温泉旅行に毎年行っていたことです。

30日までは家の掃除とか一生懸命頑張って、31日からは温泉でゆっくり年越しをするというのが何年・・(アスペ子の記憶なので曖昧ですが)10年くらい続きました。

湯治場のような時もあれば、旅館の時もあれば、ローカルCMに出るようなプチ高級旅館の時もあれば、と父親が決めた、様々な旅館に泊まりました。

一番印象に残っている場所は、群馬県の川原湯温泉です。アスペ子が小学生の頃のことです。ここは当時、もうすぐダムになるから温泉がなくなると言われていて、父親がどうしても行きたいと言ってわざわざ行った場所です。とてもひなびた良い温泉でした。

しかし・・アスペ子は「硫黄」に弱く、匂いを嗅いだり、温泉に入ったりすると、気持ちが悪くなって貧血のように倒れてしまいます。

それは母親も同じだったらしく、アスペ子が手を支えてロビーまで連れて行き「少し横になっていれば治るから」と言った記憶があります。

まさか硫黄泉だったなんて・・

結局アスペ子はその一回しか温泉に入りませんでした。母親はせっかくだからといって、夜、誰も入っていない男湯に父親と一緒に入ったそうです。男湯は天井に湯気が抜ける窓が付いているので、硫黄臭がたまっていなかったらしいです。

しかし、いつしかから、だんだんとアスペ子の運動クラブが忙しくなってきて、冬期合宿も30日まであり、年末の風物詩に参加できなくなったり、旅館にもいかなくなりました。

そうなると、アスペ子も親戚の人たちとどんどん疎遠になり、人見知り状態に拍車がかかりました。

母親もこの頃はスーパーでパートをしていたので、31日まで仕事があり、年越しになるたびに年末の様式が変わっていきました。

おせち料理の鮮魚などを買いに行くのは父親とアスペ子の二人で、当時では珍しかった「都会の中の鮮魚店」のようなところで、マグロの刺身と酢だこを買っていました。

なぜ父親がマグロの刺身と酢だこにこだわっていたのかはわかりません。聞いたことも、聞こうとしたこともありません。

1月1日は「新年明けましておめでとう」と言って、家族全員で食事をしました。

あとは年賀状を見たり、駅伝を見たり、お年玉をもらったり、近所の神社に初詣に行ったり・・そのくらいでした。一緒に遊ぶ子もいなかったので、家でテレビを見て過ごすのが新年でした。本当に寝正月という感じです。

当時は1月1日にスーパーもやっていなかったし、コンビニは遠くに一軒あっただけでした。今の正月に比べると、のどかな正月だったなぁと思います。

でもアスペ子にとっては、のどかではありませんでした。新年から運動クラブの練習があったり、春休みの後半は合宿並の厳しい練習が待っていたからです。これも試練だったのか何だったのか、今となってはよくわかりません。

余談ですが、幼少期を過ぎて中学生の頃になると、年末年始は「良いこともあり、嫌なこともあり、また一年が始まるんだな」と、毎年同じことを思っていたアスペ子でした。

お年玉がたくさんもらえた年には、春休みの間中(運動クラブが休みの時)、市内の繁華街に行って一人で遊んでいました。

アーケードになっている繁華街にはたくさんのお店があり、雑貨店や本屋、文房具屋、ジーンズ屋・・最後にミスドでホットチョコレートとドーナッツ2個を食べながら、一人で黙々と友人に手紙を書いたりしていました。

しかしこの行程がアスペ子は大好きでした。

一人でアスペ子の時間を楽しむ。

誰も邪魔する人はいない。

今も書きながら、懐かしい良い思い出だったなと思っています。

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日記帳

Posted by アスペ子